東京〜現実歪曲フィールド界隈

東京で外資系企業の営業で働く人

第四章(4)とめられないもの

三つの固定

第四章では、

  • 時間をとめる   

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  • 見方をとめる

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  • 動きがとまる

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これらの3つの「とめる・とまる」を見てきた。

共通しているのは、固定だ。

時間をとめる(止める)

観察、測定、分析を行うには、対象を止める。
動いているとぶれるし、細部まで見られない。
動画だって、一時停止してみることはある。
写真は止まっているから、写真なのである。

だが、私たちは往々にして、止めたことを忘れる。

見方をとめる(留める)

見る方向で、感じ方は異なる。
部下と上司のように、立場が違うと見え方が異なる。
見方を固定すると、理解がしやすい。
さらには、パターン化して認識できる。

だが、私たちは往々にして、固定したことを忘れる。

動きがとまる(止まる)

失敗したくない、自信がないので、足がすくむ。
人の責任に押し付けて、自分は行動しない。
完璧主義に陥ったり、自他の境界を明確にすればするほど、
自ら動かなくなるし、動けなくなる。

それでも、世界は先へ流れていく。

忘れ、錯覚する

私たちは、なんとなくしたことを忘れやすい。
最初はピンで止めるように、軽く固定しただけだった。
なんとなくしたことだから、うっかり忘れてしまった。 そして仮の固定が、半永久的な固定化になってしまう。

固定化されると、私たちは錯覚してしまう。
今も、これから先も、動かないと錯覚してしまう。
自分の見方が、正しいと錯覚してしまう。
しょうがない、仕方がないが、正しいことと錯覚してしまう。

自分で引いた線であったはずが、
いつの間にか、マイルールとなり、
超えてはならない線になる。
そしていつの間にか壁になっている。

問題の根は、知的生産ツールや方法そのものではない。
なんとなく固定して、忘れ、錯覚する。
問題は、私たちの態度にあるのではないか。

止めていい幻想

固定化することの問題点を指摘してきたが、
問題の根はどこにあるのだろうか? 忘れることだろうか? 錯覚することだろうか?

どちらも対症療法にしかならないように思える。
色々と考えてみたが、うまい解決策が見当たらない。
こういう時は、原点に戻って考える。

そもそも止めていいものか?
止めることを当然と思っていないだろうか?

頭に閃いたのは、次の有名な古典だった。

ゆく川の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず

もしも止めたとしたら、その瞬間に
その本質を失うもの。
川の流れだ。

動きの中に静止画を見る

川を見て、絵を描く、写真を撮る。
エコーの診断は、動かしながら、止めて撮影している。
動きの中から、静止画を見出す。
止めるのでなく、動きから抽出する。

なぜ止めないのか。
川を見るのに、水を止めるだろうか。
水を止めたら川でなくなる。
世界だって動いている。
世界を止めたら、世界ではなくなる。

固定しないと見にくいし、理解しにくい。
それでも、「川と同じようなもの」と前提条件にする。
今日からはじめて、すぐにうまくいくわけではない。
とめることなく、そのままを見る。