東京〜現実歪曲フィールド界隈

東京で外資系企業の営業で働く人

第四章(5)複雑化する世界と科学

知的生産ツールは非常に有用だが、使い方次第だ。
そこで第四章では、使い方と問題に焦点を当てた。

その結果、5つの問題を指摘し、その根底には
「とめる(止める、留める)」と「とまる(止まる、留まる)」の問題
があることを見出した。

つまり、私たちは、

  1. 時を止めて
  2. 見方を留めて
  3. 時にはプロジェクトが停まって

しまいやすいのである。

その一方で、私たち自身も含め、世界は絶えず動いている。
とめたり、とまってしまっては、世界からズレる。
でも私たちは、「とめること」をやめられないし、「とめたこと」すら忘れてしまう。
これは態度の問題であって、是非の問題ではなかった。
だから前節では、「とめる・とまる」を超えた「次の視点」を考察した。

次の視点とは、
「動いている世界をそのまま見つめ、動きの中から静止画像を抽出する視点」
である。

科学的手法の導入

しかし、「次の視点」は非常に哲学的だ。
これを私たちの日常に導入するのは難しい。
もう少し導入しやすくする、工夫が欲しい。

20世紀は、科学的手法を労働や生産の現場に導入した。
その結果、社会の生産性を飛躍的に高めた。
21世紀は、科学的手法を「次の視点」に導入する。
他でもない、私たち自身のために。

導入条件

「次の視点」に導入する科学の条件は何だろうか?
残念ながら、20世紀に労働や生産の現場に導入した「科学」をそのまま「次の視点」には導入できない。

動いている世界をそのまま見つめ、
動きの中から静止画像を抽出する視点

すなわち

  • 動いているという状態
  • 動きの中から静止画像を抽出
  • そのまま見つめる範囲

について、適切な「科学」を選択することだ。
上から順に行こう。

動きを前提とすること

第一に、動的で変化を扱う科学であることだ。
本書では、繰り返し「世界は変化し続けていること」を指摘している。
変化し続けることが前提である。

適切なモデルを形成できること

静止画像を抽出するというのは、「適切なモデルを形成する」ということである。
適切なモデルとは、さまざまな条件検証に多大な時間や莫大なコストを必要としないことである。

複雑さが適度であること

そのまま見つめることができる範囲は広くない。
管理できる範囲、認識できる範囲は、広くできない。

以上をまとめると、

  1. 動きを前提とすること
  2. 適切なモデルを形成できること
  3. 複雑さが適度であること

この3つの条件を満たす、科学を探すことになる。

妥当な科学

「新しい視点」に適用可能な、科学を探してみよう。
まずは、数学から。

  • 動きを前提とすること:*
  • 適切なモデルを形成できること:*
  • 複雑さが適度であること:*

数学が扱う対象は、高度に抽象化され、一般化されている。 それゆえに、広範性をもつ。
しかし、具体的な世界の変化を扱うには、やや距離があると言わざるを得ない。

次に物理学古典物理学と現代物理学を両方合わせて確認する。

  • 動きを前提とすること:**
  • 適切なモデルを形成できること:**
  • 複雑さが適度であること:**

物理学は、ロックがいうところの第一性質(Primary qualities)を扱う自然科学である。
第一性質とは、存在、物の形、大きさ、動きなどのことである。
物理学の焦点は、個別の事象よりも普遍的な法則の抽出にある。
条件依存の変化そのものをテーマにはしない。

そして、化学

  • 動きを前提とすること:***
  • 適切なモデルを形成できること:***
  • 複雑さが適度であること:***

化学は、第二性質(Second qualities)に関わる自然科学である。
第二性質とは、色や味や匂いのような五感に訴える性質である。大きいか小さいかというのとは異なり、このような性質は個別的で現れ方が多様である。
また、物質の立ち振る舞いを記述する言語とも例えられ、反応容器でさまざまな条件を設定でき、実験による検証が可能である。

さらに、生物学はどうだろうか?

  • 動きを前提とすること:**
  • 適切なモデルを形成できること:**
  • 複雑さが適度であること:**

生物学がカバーする範囲は、細胞レベルから生態系まで幅広い。
扱う変数は非常に多く、個体差や環境依存性を無視できない。
モデル化しても、条件の切り抜きが容易でなく、時間軸も長い。

最後に、地球科学

  • 動きを前提とすること:*
  • 適切なモデルを形成できること:*
  • 複雑さが適度であること:*

地球科学は、時間と空間のスケールが巨大である。
そのため、実験室レベルでの条件変更と検証が難しい。
私たちの日常の思考様式からの距離は、数学とは異なる意味で遠い。

以上の評価から、「化学」が最も妥当性が高い。

化学的思考法

動いている世界をそのまま見つめ、
動きの中から静止画像を抽出する視点

に導入可能な自然科学は、「化学」である。
化学を導入すれば、「次の視点」を得やすくなる。
だが、そのために大きな転換を必要とするだろうか?

だ。
化学的なものの導入に、化学の専門知識は必要ない。
導入」であって、何かを変える必要はない。
パッチを当てるように、少しの上書きをするだけである。

第五章では、「化学的思考法」について基本的な姿勢を紹介する。

執筆ノート〜3難産だった第四章の(4)

「第四章 次の視点へ」から、第二部になります。

各章の大きな構成は事前に決めていますが、5回に分けた原稿の(4)と(5)については、書きながら考えることが多く、どの章も苦労しています。

自分が読みたい本を書く、がコンセプトになっているので、

  • 企画した議論
  • 展開やまとめ

に分けて書いている。

構造を考えるときに、(1)、(2)、(3)についてはアイデアがほぼ固まっているので、スラスラと書くことができる。

しかし、(3)まで書いた上で、展開したり、まとめたりする部分は(4)と(5)になる。
これらを書くのは、結構骨が折れる。

第四章の(4)

第四章については、知的生産ツールを使うときの5つの問題について論じ、

  • 時間を止めてしまう問題
  • 視点・枠組みを固定してしまう問題
  • 行動を止めてしまう問題

の3つに集約させ、さらに共通するもの、「とめてしまう」ことについて整理し、
その対策として、「流れをそのまま見る」という意識について説明した。

まとめるところまでは、最初から構成していたが、そこから共通点に集約し、「固定化する罠」について論じた先で、何度も何度も書き直した。

コンセプトの渋滞を避ける

展開が進むにつれて、さまざまなコンセプトが追加されるが、唐突になりすぎて読者を当惑させないように、意味不明にならないように配慮した。
またその逆に、説明しすぎないように調整するのも難しかった。

いよいよ次で、第四章が終わります。
その先の第五章は、この書籍プランの核となる部分になります。
2025年の年末に、AIと思考のキャッチボールをしたことがきっかけとなり、勢いで「核」となるまとまった文章を書いた部分になります。

第四章(4)とめられないもの

三つの固定

第四章では、

  • 時間をとめる   

www.tokyo-nw-field.com

  • 見方をとめる

www.tokyo-nw-field.com

  • 動きがとまる

www.tokyo-nw-field.com

これらの3つの「とめる・とまる」を見てきた。

共通しているのは、固定だ。

時間をとめる(止める)

観察、測定、分析を行うには、対象を止める。
動いているとぶれるし、細部まで見られない。
動画だって、一時停止してみることはある。
写真は止まっているから、写真なのである。

だが、私たちは往々にして、止めたことを忘れる。

見方をとめる(留める)

見る方向で、感じ方は異なる。
部下と上司のように、立場が違うと見え方が異なる。
見方を固定すると、理解がしやすい。
さらには、パターン化して認識できる。

だが、私たちは往々にして、固定したことを忘れる。

動きがとまる(止まる)

失敗したくない、自信がないので、足がすくむ。
人の責任に押し付けて、自分は行動しない。
完璧主義に陥ったり、自他の境界を明確にすればするほど、
自ら動かなくなるし、動けなくなる。

それでも、世界は先へ流れていく。

忘れ、錯覚する

私たちは、なんとなくしたことを忘れやすい。
最初はピンで止めるように、軽く固定しただけだった。
なんとなくしたことだから、うっかり忘れてしまった。 そして仮の固定が、半永久的な固定化になってしまう。

固定化されると、私たちは錯覚してしまう。
今も、これから先も、動かないと錯覚してしまう。
自分の見方が、正しいと錯覚してしまう。
しょうがない、仕方がないが、正しいことと錯覚してしまう。

自分で引いた線であったはずが、
いつの間にか、マイルールとなり、
超えてはならない線になる。
そしていつの間にか壁になっている。

問題の根は、知的生産ツールや方法そのものではない。
なんとなく固定して、忘れ、錯覚する。
問題は、私たちの態度にあるのではないか。

止めていい幻想

固定化することの問題点を指摘してきたが、
問題の根はどこにあるのだろうか? 忘れることだろうか? 錯覚することだろうか?

どちらも対症療法にしかならないように思える。
色々と考えてみたが、うまい解決策が見当たらない。
こういう時は、原点に戻って考える。

そもそも止めていいものか?
止めることを当然と思っていないだろうか?

頭に閃いたのは、次の有名な古典だった。

ゆく川の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず

もしも止めたとしたら、その瞬間に
その本質を失うもの。
川の流れだ。

動きの中に静止画を見る

川を見て、絵を描く、写真を撮る。
エコーの診断は、動かしながら、止めて撮影している。
動きの中から、静止画を見出す。
止めるのでなく、動きから抽出する。

なぜ止めないのか。
川を見るのに、水を止めるだろうか。
水を止めたら川でなくなる。
世界だって動いている。
世界を止めたら、世界ではなくなる。

固定しないと見にくいし、理解しにくい。
それでも、「川と同じようなもの」と前提条件にする。
今日からはじめて、すぐにうまくいくわけではない。
とめることなく、そのままを見る。

第四章(3)動けない、動かない

興味を失ったわけでもない、
熱を失ったわけでもないけど、
手が止まってしまった。
足が止まってしまった。
あなたにも、一度はあったことだろう。

そういえば、「あれ」どうなっている?
二人の間で「あれ」といえば話は決まっている。
気難しいが、予算達成を左右する、大口の顧客だ。
そろそろ、競合を出し抜く提案を出さないとヤバい。

リサーチはした、分析もバッチリ。
イデアの核は出来上がっている。
でも、なんか弱い。そう感じる。
もう少し磨きたい、
もう一捻りしたい、
と思って、すでに1週間が経過していた。

慎重を期すばかりに

あなたも、私も、
誰もすき好んで、失敗したくない。
慎重になるのは当然だ。

一度ならず、二度確認する。
時間を空けて、もう一度考える。
悪いことではない。

しかし、やりすぎは禁物だ。
熟慮のつもりが、単なる判断の先延ばしでないか?
その間に、世界は動いていないか?

チャンスの女神には前髪しかない。
完璧に準備できてからでは、間に合わない。
チャンスはいつも、不備をつくようにやってくる。

だから、不十分でも行動すべき時がある。
あれがチャンスだったと気づくのは、
だいたい後で振り返った時である。

絵に描いた餅

とならないように、十分に気をつけたい。

私がやらなくても

頼まれ仕事も、簡単ではない。

課長から、配属される新人の教育計画を依頼された。
実際の教育は、課長が指名して実行するという。
私はバランスの良いプランを考え、担当できる先輩と同僚を課長に報告すればいい。
休憩時間や、会議の合間を利用して、雑談を交えながら相談し、プランをまとめ、課長に報告した。
私のすべきことは、全てやった。
実行は、課長の仕事だ。
しかし、3日も前に新人が配属されたが、私が立案した教育プログラムが実行される気配がない。

相談した先輩と同僚から、「おい、どうなってる?」と聞かれても、私はプランを作っただけだ。

実行は、課長の仕事ですよ。
先輩と同僚に説明して、
自分にもそう言い聞かせるが、
なんだか悶々とした日々を送っている。

職務権限の境界が明確な組織では、
業務評価の対象外のことは、誰もやらない。
その結果、
誰の仕事でもない空白が生まれやすい。

目の前に「やるべきこと」が存在しても、
それは自分の仕事ではない、
とする。
そして、議論だけが続き、当事者はいない。
なのに、私は、モヤモヤした居心地の悪さを感じてならない。

このような問題を、

評論家的態度問題

とした。

自分ごとではなく、他人事となった瞬間、
この問題はひっそりと立ち上がるのだ。

常識と良識

自分が、動けない、動かない問題。
言い換えると、
絵に描いた餅問題と、評論家的態度問題。
いったい、どう対応するのが良いのだろう?

居心地の悪さを感じるのは、
あなたがそれを良しとしていないから。
私も同じだ。

無理に鈍感にならなくていい、
見て見ぬ振りをしなくていい。
遅かれ早かれ、いずれ誰もがそれに気づく。
少しだけ早く気がついただけのことだ。
責任のある人に、ひとこと、声をかける勇気が欲しい。
たったそれだけで、空白は埋まる。

世間の常識ではなく、
あなたの、私の、常識に照らして
判断する。

良識ある行動は、
だいたいいつも、思っているほど大げさでない。
ちょっとだけ背中を押すような、
そんなささいな行動で、十分なのだ。

動けない時、動かない時

誰にも、動けない時、動かない時はある。
それを責める必要はない。
動けと念ずる前にすることがある。
それは、観察することだ。

なぜ動けないのか。
どうして動かないのか。
自分の言葉で書き出してみる。
頭の中から、外に出すのだ。

なぜ自分は止まっているのか。
自分は何を恐れているのだろうか。
自分は何に面倒くささを感じてるのだろうか。

一つひとつを、自分の頭の中から外に出して、
客観的に眺めると、
見えてくるものがある。
見えたとき、次の一歩は、もう自然と踏み出せてる。

第四章(2)ありのままには見られない

予断をもつな、先入観にとらわれるな、何度も聞いてきた。
でもまさか、は突然やってくる。

始まりは普通の技術的な問い合わせの姿をしてやってきた。
形ばかりの誠実な態度で話を伺い、技術サービス担当者に連絡を入れた。
やれやれと、一息ついて、別の仕事に取り掛かり、そのことはすっかり忘れてしまった。

風向きが変わったのは、1週間後だった。
相手の体温が、2℃以上は上がっているのが、電話越しでもよくわかる。
何かしでかしたか?
でも、思い当たることは何もない。

実は、技術的な問い合わせの話ではなかった。
あまりにも穏やかに、論理的に話すAさんだったから、軽く扱ってしまった。
Aさんからの問い合わせは、ほとんど技術的な質問ばかりだった。
そして、言葉の当たりがとても柔らかいので、深刻さは全く感じない。

でもそれは、彼の優しさであり、人格だった。
これまでは、品質クレームとなる一歩手前のところで、Aさんが技術サポートを利用して、社内で問題を未然に解決していたらしい。
今回は流石にAさんの手には負えなかったのに、私はそれに気が付かなかった。
いつものAさんからの電話だと、自分に都合の良い解釈で決めつけていた。
Aさんからの1週間前の電話は、品質クレームの話だったのだ。
技術サポートではなく、品質保証の担当者を紹介しなければならなかったのだ。

都合の良い解釈

あなたにも、こんなことないでしょうか?

  • いつもより強いストレスにさらされている時
  • いつもより忙しい時
  • いつもより多種多様なタスクに注意力が発散されている時

こういう「いっぱいな状態」の時、
私たちは、できるだけテキパキ片付けようとして、
反射神経的にバッサバッサと仕事を捌いてしまう。

または、
忙しい時に限って、かまってちゃんになる子どもを
「いつものことだ」と軽く扱ってしまう。

そういう時に限って、重大事件が発生する。

仕事の場面では、重大トラブルが発生したのに気が付かない。
子どもとの場面では、単に機嫌の問題と思っていたら、実はすぐに病院に連れて行くべき状態だった、 ということもある。

忙しい時ほど、判断したり、考えたりすることを省略して、パターン化した反応をしてしまう。
反射神経的に動く、マシーンのようになってしまう。
だから、「いつもとは違う」予兆に気がつけない。
パターンで対応できるように、都合の良い解釈が優先される。

仕事ができる人ほど、テキパキと動ける人ほど、
この罠にハマりやすい。
パターン化して、反射神経的に対応することで、処理能力を爆上げしているから。
でも、都合の良い解釈を放置してしまうと、冒頭のような過ちを繰り返してしまう。

このような、都合の良い解釈をしてしまう問題を、私は

現実歪曲フィールド問題*1

とよんでいる。
私たちは、現実を自分にとって都合の良い形でしか見ようとしない。
意識して現実歪曲フィールドのスイッチを切らない限り、
現実をあるがままに見られない。

1週間前にかかってきたAさんの電話を、
いつもと同じ電話だと見なし、技術サポートだと勘違いした私は、
まさに、現実歪曲フィールドの影響下にあった。

Aさんが発するシグナルを正しく受け取れず、
それが本質的には品質クレームだったということに、
全く気が付かなかったのだ。

都合よく修正する

別に技術サポートの担当者を責めるわけではない。
(自分のミスは棚に上げて)
「これって、品質クレームじゃないの?」って一言くれてもいいはずなのに。
でも、メールを遡ってみたら、そうではなかった。

あれ、これ、完全に技術サポートの依頼にしか見えない内容になっている。
技術サポートを依頼するフォーマットに、
事もあろうに自分自身が、Aさんの主張を整え、
当てはめていたのだった。

私たちは、都合の良い現実しか見ないだけでなく、
現実をしっかり見ているのにも関わらず、
都合の良い枠に、押し込み、当てはめてしまう。
つまり、楽ができるように、修正してしまう。

これはまさしく、旅人の背丈をベットの長さに無理矢理に合わせた、
プロクルーステースの行いそのものである。
ベッドの端からはみ出したら、足を切り取り、
ベッドの端が余っていたら、無理矢理に体を引き伸ばす。

これが、

プロクルーステースのベッド問題

である。

フレームワークの利用における問題の一つとして、
現実を無理矢理にあるセグメントに当てはめてしまう行為を紹介したが、
KPIにも構造化のツールにも、同じ問題は発生する。
KPIが微妙だったら、採用しなかったり、期待する数値になるように微調整する。
構造の枠組みを微調整する誘惑も強い。

予定調和への願望

自分にとっての、都合の良い解釈も、都合よく修正する行為も、
その背後には、「楽になりたい」という動きがある。

  • 認知のリソースを節約できるし
  • 安心も保たれる
  • 自己正当化もできるし
  • 予測可能性の維持も達成できる

予定調和に収まって楽をしたい願望があるからだ。
不都合な現実は、誰も見たくない。

世界は、思ったとおりであって欲しいもの。
自分の理解は、正しかったと信じたい。
自分の理解、判断が間違っていた、失敗した、という現実ほど、
受け入れ難いものはない。

裏切られたくない。
予定調和の世界は心地がいい。
だから、こうあってほしい、こうなるはずだ、
が前面に出てくるのだ。

だからこそ、予断を持ってことにあたってしまう。
そうあってほしいからだ。
先入観が判断の邪魔をすることは、知識として知っている。
でも願望からの自由は難しく、影響をゼロにするのは難しい。

はたして、どうしたら良いのだろうか?
予断を廃し、先入観にとらわれず、
ありのままを、正しく、フラットに見られないだろうか?
思い出したのは、次の言葉だった。

虚心坦懐(きょしんたんかい)

そのものズバリだった。
私は、確かにこの言葉を知っている。
いくつかある、私の座右の銘の一つだ。

新明解国語辞典によれば、
 虚心とは、先入観などにとらわれず、対象をあるがままに素直に受け入れようとする態度(様子)
 坦懐とは、「わだかまりがなくて、さっぱりした心(で物事に接する様子)。
である。

さらに言葉を探していく中で、
もう一つの言葉に出会うことができた。

如実知見(にょじつちけん)

仏教の言葉だそうだ。
意味を知って、ハッとした。
如実とは、あるがままに、ということ。
知見とは、正しく見る、ということ。

私が探していた、非常にしっくりする言葉だった。
予定調和への願望に引きずられることなく、
現実を現実として受け取る態度。

少し長いが、浄土真宗本願寺派の「読むお坊さんのお話」から一部を紹介して、この節の結論としたい。

いうまでもなく仏教では、自らの自己中心的で固定的なものごとの見方を離れ、ありのままに物事をみること〈如実知見(にょじつちけん)〉の大切さが繰り返し説かれてきました。お釈迦さまは次のような言葉をのこされています。

 「諸々(もろもろ)の事物に関する固執(こしゅう)(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故(ゆえ)に人はそれらの(偏執(へんしゅう)の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。(スッタニパータ七八五偈、中村元訳『ブッダのことば』)

 私たちは知らず知らずのうちに、自分自身や物事に対してこだわり〈固執〉をもって生きています。それらはすべて、自分の都合のよいようにという自己中心的な見方からくるものです。お釈迦さまはまさに、こうしたこだわりこそが自らを苦しめるものであると見抜かれたのです。

*1:現実歪曲フィールド(Reality Distortion Field)とは、Appleの共同創業者であるSteve Jobs(1955 - 2011)のカリスマ性と強引さを表現するためにスター・トレックの用語を借りて名付けた言葉です。

第四章(1)世界は動いている

健康診断を受けることになりました。
血液検査、血圧などを測定しました。
さらに、胸部レントゲン、エコー検査も受けました。
オプションで、CTスキャンMRI検査を受けることにしました。 第一章から第三章では、知的生産ツールについて説明しました。
冒頭の健康診断と知的生産ツールには、実は相関があります。

最初の検査、血液検査、血圧などは検査結果が数字で表され、正常範囲が存在します。これは知的ツールでは、KPIに相当します。

次の検査、胸部レントゲン、エコー検査は、フレームワークに相当します。

オプションのCTスキャンMRIのような3次元画像診断は、ロジックツリーなどの構造化の知的生産ツールに相当します。

検査は繰り返し行われる

健康診断の結果、1ヶ月後に入院が必要になりました。

健康診断で一通りの検査はしたのにも関わらず、入院したら、また同じ検査をすることになりました。たった、1ヶ月前にも関わらずです。

治療の関係で、病院を変わることになっても、また、検査をするでしょう。

入院すると、毎朝、検温、血圧の測定、たまに採血が求められます。 手術後などは、センサーが体に取り付けられて、モニターされます。

なぜ、こうも検査を繰り返すのか。

それは、私たちは生きているからです。
刻一刻と、変化するからです。

良くなっているかもしれないし、悪化していないか心配です。
体の状態を正確に掴むために、検査を繰り返し行います。

世界は動いている

医療行為の検査も、
私たちが知的生産ツールを活用して生活・仕事で最良の判断を試みていることも、
責任の重さや、許容される失敗の範囲は大きく異なりますが、
変化し続けている世界を前に、
状況を把握し、適切に判断し続けるという点では、人間として同じ営みです。

医療における検査の厳密さ、慎重さのレベルを
私たちの生活や仕事にそのまま持ち込むのは、過剰かもしれません。
それでも、変化する世界への認識を新たにしていくべきではないだろうか?
私たちは、今を生きているし、
世界も、動きを止めることはない。

つまり、半年前に行ったSWOT分析
今も有効だと信じて、
戦略を練っている場合ではないのです。
定期的に見返すものなのではないかと、いうことなのです。

まるで頭の中の時計が止まってしまっているかのように、
過去の事実や記憶に囚われてしまって、今現在の認識に影響を及ぼす問題について、
先に私はこう命名しました。

いつまで経っても子ども扱い問題

認知の時計の歪み

顔見知りの年上の方から、
いい大人になっても子ども扱いされる、
私はもう大人で十分成長しているのに。
おそらく、その方のあなたへの認識は、あなたが子どもの頃のままで止まってしまっているのでしょう。
懐かしさの裏返しでしょうが、何か釈然としないものが残ります。

でも、そう思うあなたも、同じようなことをしていませんか?
つまり、対象の変化を無視していませんか?
部下や後輩の成長を、正しく認めていますか?
世の中の変化を、受け入れることができていますか?

私たちは、人間なのですから、どうしても
自分にとって都合のいいこと
自分にとって好きなこと
自分にとって大切なこと
だけを優先してみてしまいがちです。

どんなに意識しても、
なかなか、耳の痛い話や良かれと思って言われたこと、
不都合な現実
不愉快な敗戦状況
などは、観て見ぬふりをしてしまいます。

こうして、認知の時計は歪んでしまいます。
あなたにとっては都合の良い、
対象を子どものままの扱い
にしてしまいやすいのです。

知っていれば対処できる

いつまで経っても子ども扱い

この問題への対処はどうしたら良いでしょうか?
過去の認識が固定化され、
現在の観察に影響を及ぼす、
無意識にやってしまうことへの対応策
はあるのでしょうか?

このブログの読者は、
実はその対策が、できています。
なぜならば、あなたは、
「いつまで経っても子ども扱い」という問題を知っているから。

知らないと知っているでは大きな違いです。
認識の誤りに、気がつくきっかけを
持っているからです。
あとはそれを、仕組みに落とし込むだけのこと。

GTDで言うところの週次レビューは、この問題に対する一つの回答です。
定期的に、対象を、フラットに、謙虚に、見つめ直す。
自分の認識が、過去の時点で止まっていないだろうか?
世界の変化に対応できているだろうか?

有効期限と定期検査

見積書には、通常、有効期限があります。
ある一定の環境下での価格提示ですから、時限的な有効期限を設定する必要があるからです。
食料品だけでなく、工業原料にも、使用期限、品質保証期間というものがあります。
工場も、定期的に生産を止めて、点検・確認をします。「定修」といいます。
運転免許証など、各種ライセンスも定期的な更新が求められます。
そして、定期健康診断。

このようにして、私たちは、仕組みの中で、「いつまで経っても子ども扱い問題」に対応しています。
ですから、同じように、仕組みで、
あなたの生活・仕事でしていることも、
定期的に、動いている世界と生きている私への確認
をするのが良いのではないでしょうか?

【参考図書メモ】もう一つのスタンダード──イシューからはじめよ

第二章を書いている最中に、強い必要性を感じてこの本を手に取った。

もちろん、「企業参謀」の副読本として。

本書を参考にしたのは、第三章をどう書くべきか迷ったからである。

構造化が大事なのは、力点をどこに置くべきかを明確にするため。
メインのイシューは何か?という問いである。

同時に、第一章から第三章まで――本書第一部全体を総括する視点を確認するための、重要なチェックポイントでもあった。

初読時は刺さらなかった

正直に、この本も、初読時の印象はあまり良くなかった。

当時はMBAを学んでいる最中で、GEでの実務経験もあり、
本書で語られている主張―
「全てをやる時間はない。だから、イシューの質を上げよ」
というメッセージには、すでに完全に同意していた。

だからこそ、
「言っていることはもっともだが、特に新しいものはない」
という感覚が先に立ったのだと思う。

加えて、私はどうしても、
コンサルティングの話よりも、現場のビジネスの話の方に強く惹かれる。
その距離感も、当時は影響していたはずだ。

今回の再読で、立ち位置が変わった

今回の再読で、違和感はほとんどなかった。
むしろ、非常にすんなりと頭に入ってきた。

ただし、以前と決定的に違う点がある。
今回は「読者」としてではなく、「書く側」の視点で読んでいた、
という点だ。

  • どういう順番で話を組み立てているか
  • どこで抽象度を上げ、どこで具体例を差し込んでいるか
  • どの言葉で共感を取り、どの言葉で論点を締めているか

そうした構造ばかりを、無意識に追いかけていた。

結果として、
本書の価値は「主張そのもの」ではなく、
伝え方の設計にあるのだと、強く感じるようになった。

第三章との接点

この本は、第三章そのものと、第三章末の中間結論の妥当性を確認するために読み返した。

第一部全体を振り返る上で、本書は極めて重要な参照点だった。

一方で、はっきりしてきたこともある。
この本は、第一部までの思考整理には有効だった。
しかし、第二部以降の議論では、いくつか同じ問題提起はあるのだけれど、そのままでは使いにくい。

それは本書の欠点ではない。
むしろ、守備範囲が明確であるがゆえの、健全さだろう。
これは、イシューについての本だから。

変わったのは、本か、自分か

変わったのは、間違いなく自分である。

かつては、
「なるほど、わかる」「同意できる」
という読み方しかしていなかった。

今は違う。

  • 「なぜ、この順番なのか」
  • 「なぜ、この言葉なのか」
  • 「なぜ、ここでこの例なのか」

を追いながら読んでいる。

それは、第一章から第三章までを書き切ったからこそ、
初めて手に入った読み方なのだと思う。

第一部を書き終えた今だから見えること

第一章から第三章までは、
世の中にすでに存在する考え方やツールを、
自分の言葉で再構成する「翻訳」の作業だった。

『イシューからはじめよ』は、
その翻訳作業を支える、非常に洗練された教科書だった。

だが、ここから先―
私が書こうとしている第二部、第三部は、
この本の射程の外にある。

それでいい。
この本は、ここまで連れてきてくれた。

そして今、
自分は次のフェーズに足を踏み入れようとしている。